7/25 出発
7/26 ホストファミリー
7/27 ボクシング・ジム
7/28 シティ・ビーチ
7/29 ハンティング
7/30 シェヘイリス
7/31 教会
8/01 デビッド
8/02 フォート・スティール
8/03 ホープ
8/04 コーダレーン
8/05 アンソン氏
8/06 クリーク
8/07 サニーサイド
8/08 サニーサイド
8/09 ショッピング
8/10 ハックルベリー
8/11 フィッシング
8/12 クラーク・フォーク
8/13 水上スキー
8/14 もろもろ
8/15 取材
8/16 デイリー・ビー紙
8/17 コーダレーン
8/18 学校
8/19 誕生パーティ
8/20 水上スキー
8/21 お別れ会
8/22 帰国
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Introduction
私が中学生だったころ、両親から国際交流プログラムに参加する機会を与えて貰いました。このプログラムは1974年頃より日本のラボ教育センター、そしてアメリカの4Hクラブにより始まり、アメリカ西部を中心とした各州へ毎年1500人もの中高生たちが夏休みの1ヶ月をアメリカ、韓国などで過ごすプログラムです。また同様にアメリカからも1000人以上の4Hメンバーが日本を訪れていました。特にワシントン州、アイダホ州はこのプログラムへの参画が早くまだ小学生の自分に一度アイダホからやってきたGregという青年に会う機会がありました。今思えば彼はサンドポイント出身ではなかったか?と朧げに記憶しています。そして両親が思いきって応募することを決意してくれたおかげで何ものにも替え難い貴重で有意義な夏休みを過ごすことができたわけです。 このホームステイの間、私は本当に多くの経験をし多くのことを学ぶことができました。今回、久し振りに訪れたサンドポイントを紹介するウェブを立ち上げるにあたり、この貴重な経験を伝え今も続くこの国際交流プログラムその他の機会で若い時期に外国での生活に触れる経験をするだろう多くの中高生や彼等の両親たちに伝わるものがあれば、そう思ってこのホームステイ体験を朧げな記憶を辿りながら簡単に紹介していこうと思います。


Map sent to me
Host family
出発に先駆けてまずはホストファミリーが決定し、1977年の3月にホストファミリーから初めての手紙を受け取りました。ホストマザーのDonna Fieldsがタイプライターで打ったその長いメールには家族のこと、アイダホ、そしてサンドポイントのことが書かれていました。このコーナーのトップページに据えた写真はこの時にDonnaが同封してきた家族の写真です。四半世紀が過ぎ随分と劣化してしまいましたが、まだ残っていたこの写真を迷わず使うことにしました。さて、この手紙が届いた時からホームステイ・プログラムはより具体的に始まったと実感しました。その後ラボ教育センターが主催する結団式などのいくつかのイベントを経ていよいよ、日一日ホームステイが始まることの期待感にわくわくしました。夏休み中に全く勉強できないこと、部活に参加できないことなどの不安以上に見知らぬ土地、しかも日本語が全く通じない土地での一ヶ月というものがどんなものなのか、その期待感が上回っていました。英語も中学2年のレベルなど知れています。それでも言葉が通じない不安はあまり実感していませんでした。ホストファミリーと会うまでは完全にラボと4Hのコンダクターが付くわけですし、ホストとさえきちんとコミュニケーションできればいいわけです。そんな期待感の中いよいよ出発前夜、1977年の7月24日がやってきました。最後の荷造りを終え就寝したものの、期待と緊張感でなかなか眠れなかったように覚えています。

7月25日
アメリカへの出発

Stanfort Univ.

SFO Airport
この忘れることのできない旅は7月25日の朝、故郷の長野を出発するところから始まりました。長野は1998年に開催された冬期五輪で国際的な著名都市となりましたが、当時はNagano, where ?という程度だったと思います。長野から約4時間の旅で浜松町に到着、そして羽田空港内の出発説明会の会場に時間ギリギリで着いた記憶があります。そこで事務局より期間中のオリエンテーションを受け見送りの母親と別れいよいよ搭乗です。1977年というとまだ成田空港が建設中で羽田から国際線が発着していた最後の時代です。航空会社も現在ほど多士済々ではなく海外旅行といえばJALという時代でした。私たちのアイダホ、ワシントン・グループはJAL 1002便のサンフランシスコ行き。勿論海外旅行の経験などない私には機内すらもの珍しく、8時間を超えるフライト時間は思えばあっと言う間だったように思えます。19:30に出発、到着は同じ7月25日の昼過ぎになります。機内食、そして機内で上映される映画などもの珍しい経験を経ていよいよランディングという時、気圧の上昇による耳の痛みを初めて経験しました。今思えば我慢できないほどの激痛でフライトアテンダントに紙コップを持ってきてもらって耳に当てていたように思います。おかげで窓からの初めてのアメリカ大陸の眺めを見過ごしてしまいました。

ともあれようやく地上に到着し、サンフランシスコ国際空港で入国審査と税関審査を受けることになりました。到着後は現地に4Hの州ごとのスタッフが迎えに来ています。彼等の先導で私達はバスに乗り今晩の宿泊先であるスタンフォード大学の学生寮に向かいました。101号線を綺麗な風景を見ながら南下していきます。バスの入り口が右側というのもヘンな感じがします。ワシントン・アイダホ・グループの約50人はバスに分譲し綺麗なカリフォルニアの空の下約30分程度のバスの旅でした。目に映る全てが珍しくアメリカなんだということをようやく実感してきました。この夜はカフェテリアで食事をしたのですが、この時のバフェの食事がとても口に合わず私は一気にこの先1ヶ月の生活に不安を覚えました。結果それは余計な心配だったのですが、塩味を期待するものが甘かったり、甘いものも異様に甘過ぎたり、少し辟易してしまったわけです。食事後もまだ日が高く大学のキャンパス内を散策したり寮のロビーでピアノで日本の歌をみんなで唄ったりして過ごし思い思い明日以降のホームステイに思いを馳せました。

7月26日
サンドポイントへ
スタンフォード大学で一夜を過ごした一行はアイダホ北、アイダホ南そしてワシントンの3つのグループに別れて再びサンフランシスコ空港から飛行機に搭乗します。航空会社は忘れましたがサンフランシスコからスポーケンまで2時間のフライトです。直行便ではなかったのですが立ち寄り先は忘れてしまいました。スポーケンに着きバゲッジクレームを通って出ると、ロビーには何人かの家族が待っています。もちろん事前に写真を交換していますので私にはすぐに背の高いホストファザーのDale Fieldsの姿を確認できた。緊張しながら彼等の前に行くとDaleが「こんにちは」と言ったのです。彼は海軍の仕事で横須賀に駐留した経験があり断片的な日本語の単語は少しわかるのです。そのことは後で知ったので私は驚きながらDaleと握手、そしてハグをし、彼のファミリー、Donna, Maria, KellyそしてMaxと出会ったのでした。Daleは私のスーツケースを持ってくれ、空港の駐車場へ。そしてシルバーグレイのフォードのVANに乗り込むと空港からサンドポイントへ向かいました。スポーケン空港へは2002年の訪問時と同様インターステートの90号フリーウェイをコーダレーンで降り95号国道を北上します。途中で立ち寄ったアイスクリーム屋で食べたアイスクリームの美味しさが忘れられませんでした。本当によく言うようにアメリカでは一番美味しい食べ物、それはアイスクリームなのかもしれません。さて、フォードは95号国道をびっくりする程のスピードで北上していき、1時間足らずのうちにロングブリッジに着きます。ペンドオレイルの存在は手紙や貰った地図でよくわかっていましたが、実際に目にするとその雄大なスケールと美しさに感動を覚えました。Daleがすかさずこれがペンドオレイルと教えてくれました。何度も頷いていた記憶があります。フォードは市内を通過しいよいよホストファミリーの家に到着です。

ホストファミリー
到着した家は95号から脇道に入り未舗装の道路を少し進んだ奥にありました。留守番していたToddとMaxを紹介してもらうと、これで常時この家で生活する全員と会うことになりました。部屋はこの二人と同室です。二階のもう一部屋はMariaとKellyの姉妹。Mariaは綺麗なブロンド、Kellyは茶褐色のヘアです。Fields家の土地は約20エーカーあり日本の都市部では勿論考えられない位の広さです。この中で牛や雌鳥の飼育、そしてとうもろこしの栽培などをしていますが、農業を営んでいるわけではなく、いわゆるサイドビジネスにあたるのです。また飼い犬のSmoking Joeも忘れてはいけません。この犬は途中でスカンクを殺したり色々悪さをしてしまうのですが、大事な仲間です。私一人で彼と色々遊んだりもしました。この日の食事は内容はあまり詳細までは覚えていませんが、カフェテリアでの悪夢?による不安をすっかり払拭してくれるものでとても安心しました。大陸性気候ゆえなのか日没が遅く夜までみんなと家周辺で遊び回ってサンドポイントでの最初の夜を迎えたのです。

7月27日
朝食
サンドポイント最初の朝は寝坊気味でした。まだ時差ボケが少し残っているようでした。この日の朝食は、これからの生活の中ですっかりお気に入りとなったシリアルにソーセージ、レモネードです。今でこそアメリカ式のソーセージは珍しくないですが、魚肉を使い棒状のものがソーセージだと思っていた私にはとても珍しく、そして美味でした。シリアルにしてもすっかり日本の食卓に定着しましたが私にはとても斬新で何種類ものシリアルを組み合わせたり砂糖やミルクの量を調節したり、とても楽しかった記憶があります。コーヒーはパーコレータでいれる本格的なアメリカンコーヒー。レモネードという飲み物もいわゆるラムネとは異なり楽しませてくれました。

ショッピング
この日の午後さっそく市の中心部まで買い物に行きました。というのも海外旅行がまだ珍しかった当時多くの友人、クラスメイト、親戚のために土産を買わなければならずできるだけ早く済ませてしまいたいという気持ちがあったのでしょう。とはいえ、やはりまず自分のものが欲しくなってしまい結局レコードショップでクィーン、ボブディランといったレコードをまず買ってしまいました。プログラムの規定で所持金には限りがありましたので節約しなければならないのですが、音楽にとても興味の強かった当時ついつい買いたい気持ちを抑え切れませんでした。アメリカのレコードは日本で売られているレコードと比べ値段は随分安かったと思います。その代わりジャケットが粗末でリーフレットが入っていないといった感じでこれが日米の文化差なのでしょうか。

ボクシングジム

Boxing Gym
夕方からはMaxとToddが通っているというボクシングジムの見学です。二人ともとてもボクシングをするようには見えないのですが、毎晩のように通っていたようです。また隣人のMike Reebe氏の息子も同じジムに通っていたので私たちはDaleの運転するダットサン・トラックの荷台に乗って再び市街地まで来ました。2nd AvenueとMain Streetの交差点あたりのビルの地下にジムがあります。Sandpoint Elks Boxing ClubといいClarense Davis氏がコーチを勤めるジムです。薄暗い地下室にリングとサンドバック、それは私にとって初めて見るものでとても興奮しました。

彼等が練習する合間に私もサンドバックを叩かせてもらいましたが、彼等の叩く音とは当然ながら迫力が違いました。やがて彼等と一緒にボクシングの遠征試合に同行することになるのですが、日本では都市部にしか存在しないこうしたジムがこういう田舎街にあるものだと随分驚きました。

Tボーンステーキ
この日のディナーは骨付きステーキです。ホストファミリーは私のために醤油まで用意してくれていました。1977年当時、まだ牛肉は高級で中々食卓に並ぶものではなかった時代です。何しろ1ドル=360円という時代で輸入牛肉にしてもとても高価だったので、この日のステーキはとても豪華なディナーに思えたのです。細かな味云々は正直覚えてはいません。しかし、こういう自然の中で生活し自ら食肉牛を飼育するという家族との暮らしというのは日本ではなかなか味わうことのできない経験だったと思います。

7月28日
自転車
ホストファミリーが私のために自転車を用意してくれました。以前Mariaが使っていたものだったのですが、それでも気ままに出歩く足として自転車はとてもありがたい。ちょっと困ったのはブレーキがないこと。そう、簡易式の自転車はペダルを逆回転させることがブレーキで所謂ハンドブレーキが付いていなかったのです。これにはなかなか慣れませんでした。またペダルは停止させるとブレーキ同様になってしまうので前進させるには常に回転を続けなければならず、これがなかなか疲れるのです。とはいえ、足を手に入れた私は早速朝食前に周囲を散策したり色々な場所を自転車で見て回ることができたのです。

シティ・ビーチ

Post Card
この日の午後は初めてサンドポイントのシティ・ビーチで泳ぎました。ビーチにはダイビング・ボードが浮いていて随分感心というか工夫を感じました。これならプールのように飛び込むことが可能です。大学生らしい女性が監視塔に座り何ごとかマイクで呼び掛けていましたが私には何を言っていたのかもちろんわかりません。ビーチには多くの若者が集まりにぎわっていました。早速着替えて水に入ると、冷たい!そう夏とはいえ緯度の高いこの地は亜寒帯の地です。水温は想像以上に冷たかったことを鮮烈に覚えています。しかしそれにも次第に慣れボードからの飛び込みや水泳を楽しみました。ビーチからの風景はそれがまた綺麗で、本当にこの街にステイできることを嬉しく思いました。当時のビーチの様子は古い絵葉書にて御紹介しています。

手紙書き
ステイ中の大事?な日課が手紙を書くこと。何しろ海外旅行が珍しい御時世ですから多くの人々がエアメールを求めていました。そんな分けで毎日少しづつサンドポイントのことやこの地で経験したできごとを綴り週に一、二度の割合で絵葉書を書いていたことを覚えています。あの頃は全く思わなかったのですが今から思えばあの時の絵葉書の何枚かをとっておけばよかったな、とつくづく思います。

7月29日
線路沿いの丘

From the hill

The rocky hill
ホストファミリーのフィールズ家は20エーカーの土地を持っていて大部分が肉牛の放牧そしてとうもろこし畑を営んでいます。そうは言ってもDaleは海軍関係の仕事をしており農家というわけではありません。牛を放牧している広い土地はサンドクリークに面していて、よくこのあたりでToddやMaxたちと泥投げをしたり泳いだりして遊んだものでした。この日、Dale, Todd, MaxそしてSmoking Joeと一緒にBurlington Northern鉄道の線路沿いを歩いて散策に出ました。そして線路を渡り山の中に入ります。少し山を登ると岩場のようなところがあって、そこでランチです。アメリカ人たちは色々な意味で家族との時間を大事にします。Daleは仕事はいいんだろうか?などと思いましたが息子たちとこうしてちょっとした山登りを楽しめる生活は都会では味わえません。自分たちの家やサンドポイントの市街地までが見渡せる景色のよい場所でした。BNSFの貨物列車が通過した際のタイフォンの音がもの凄く大きな音でみんなで驚きましたが、今思えば典型的なアメリカの列車のホイッスルだったように思います。

ハンティング
午後はハンティングに出かけることになりました。Daleのダットサンの荷台に揺られおよそ2時間をかけてサンドポイントの北西に位置するハンティングポイントにやってきました。始めはなかなか獲物が見つからずに山頂からの眺めを楽しみながらDaleが獲物を探していました。しかし場所を移動してすぐに何ごとかToddが大声をあげとうとう雉を見つけたのです。それにしても14歳のToddが既に狩猟の免許を持っていたことには正直驚きました。ともあれとうとう雉を一羽しとめることができました。後にも先にもハンティングという体験はこれが最初で最後になったのでとても貴重な経験ができたと思うのですが、さすがに2時間もトラックの荷台に乗っているのはこたえました。

石井氏
その後家に戻ると私宛に電話があった。??電話に出ると何だかつたない英語を喋っている。結局同じサンドポイント地区にステイしている石井氏だった。彼とホストのベイリーが一緒に遊びに来るとのこと。彼等と一緒にキックボールを楽しみ一日が終った。

7月30日
Chehalis, boxing match.

In the vehicle to Chehalis
さて、この日は朝5時前に起床です。Sandpoint Elks Boxing Clubの一行に加わってワシントン州のChehalisで開催されるクラブ対抗のボクシングマッチに参加するのです。Chehalisはシアトル、そしてオリンピアの南、オレゴン州との州境までとの中間あたりの小さな街です。道のりおよそ800キロ。気の遠くなるようなロングドライブです。コーチであるMr. Clarense Davisのワゴン車に乗り込むと彼と、その息子さんが交互に運転をしながら800キロ先を目指すのです。大陸性気候のせいでしょうか、真夏だというのに朝は暖房なしには寒くてたまりません。こんな真夏に「暖房」ですよ? さて、メンバー全員を乗せた車は95号国道を南下、コーダレーンで90号フリーウェイへ。3時間ほどした頃には子供達はみんな寝ていましたが、起きてからもまだまだ先は遠く、車内でレスリングごっこをしたりふざけあいです。

ワシントンの中部から西は平地でどちらかといえば、北アイダホとは違い小麦畑のようないわゆるアメリカの典型的な風景に思えたのを記憶しています。お昼前にようやくシアトル郊外へ到着しました。ここで昼を取って今度はシアトルから5号フリーウェイへ。南下していくのです。そうしてようやく2時過ぎに目的地に到着です。試合会場はゴルフ場だったので試合の待ち時間でパターをやったりして遊んでいました。その日はとても良い天気で芝生のグリーンが鮮やかでした。またパラシュート大会やらゴルフはトーナメントをやっていて勝者に贈られる自動車がビックリの豪華な、多分キャデラックでした。さて、試合は我がクラブの1勝3敗。ダニーだけが判定勝ちであとの3人は惜しくも判定負け。長旅の疲れもあったようでしたが、地元のチームに残念ながら完敗でした。しかし生まれて始めてこういう形のアマチュアのボクシングの試合を見たのは始めてでしたし、とても印象的でした。試合が終りしばらくしてから、再び800キロを帰っていくのです。ダニーが腹減ったと喚くので途中夕方にレストランに寄った。ここは比較的しっかりとしたレストランでメニューを渡されましたが、なにしろ何が何だかわかりません。Mr. Davisが色々面倒をみてくれ、結局fish chipsを食べることになったことは覚えています。チップの習慣とかもあぁ、あんな風にテーブルに置いていくんだなとかあらためて実感。その後はメンバー全員がほとんどクルマで寝ていたと思います。私は途中目がさめ、95号線を走っていることに気付きました。早く帰りたい気持ちからでしょうか、時々霧の中に見える光景がペンドオレイルに見間違えたりしていました。結局サンドポイントに戻ったのは夜明け間近で丸24時間の旅となりましたが、これほどの強行軍や自動車での遠距離ドライブ、ボクシングにゴルフ、パラシュートと何もかも当時の私にはとてももの珍しい貴重な体験となりました。

7月31日
教会
シェハリスから戻ったのが明け方でしたのでこの日はすっかり寝坊です。それでも昼前には起きました。今日は教会の日、つまり日曜日です。わけもわからないまま家族全員で市街地にある教会へ行き牧師の話しを聞きました。さすがに何を言っているのかさっぱりわかりません。次第に退屈で仕方なくなってきた頃賛美歌斉唱が始まり手元にあった歌詞カードを見ながら聞いたことがあるような賛美歌を何曲か唄い、ようやく終了です。Donnaは教会でボランティアをしているのでまだ帰らずにMaria, Kellyと教会の周辺で遊びました。牧師さんに紹介してもらいその後クルマで一旦帰宅です。

新聞
その日の朝のDaily Bee紙に昨日のシェハリスへのボクシングクラブの記事が掲載されていた。写真はToddだった。一言Japanese Studentも同行と私のことが書かれていたが、こうした小さな街ならではなのかもしれないが生まれて始めて新聞に掲載された気分は悪いものではけしてないですね。

OZARK record
午後はピアノを弾いたり、この家にあった"OZARK"というレコードを聞いたりしていました。このレコードには南部の古いフォークソングやカントリーソングが収録されていたので今でも印象に残っています。何とその中に収録されていた曲を偶然新宿のミロードのアメリカンカフェで聞いた時は本当にビックリしました。まさか、こんなローカルな古いレコードがCD化されて、しかも日本の新宿で耳にするとは思いませんでした。

買い物
午後は図書館とスーパーマーケットへ行きました。MariaとKellyは「折り紙」の本を探していたようでした。残念ながら鶴くらいしか教えてあげられなかったのですが、折り紙をお土産に持参したのは正解でした。私は地図の本を見つけたので、それを読みふけっていました。スーパーはID200と95号国道の交差点の比較的近くにあるスーパーで食料の買い出しです。例のソーセージやら何やら。当時の日本ではスーパーには食品しか売っていないことが普通だったので、レコードやらサングラスやら何でも売っているスタイルが私にはもの珍しかったのを思い出します。

コンサート
さて、夕方になると再び教会へ行きました。この日は教会の地下にある小さなホールでコンサートがありました。Donnaやその他のボランティアが中心になって開催されるコンサートです。のど自慢たちが集まってギターやピアノでの生演奏はなかなか素敵でした。いわゆるアメリカンフォークソング中心にみんな楽しそうでとても良い雰囲気でした。Donnaのボランティアの関係もありMaria, Kellyと一緒にレモネードを作ったり氷を用意したり忙しく働きながらコンサートを楽しみました。

8月1日
Davidと遊んだこと
Toddが行こう!と言うので着いていくことに。自転車に乗って95号を少し北へ行ったところにDavidの家がある。庭に模型の鉄道があったりなかなか大きな家だ。彼の家も畜産をやっていて牛が逃げないためにフェンスに高圧電流が流れていました。Toddが気をつけろ!と言ったその瞬間やってしまいました。軽くですがフェンスに触れその威力を身をもって経験してしまったのです。さて、Davidとは牛の放牧地内で糞を投げあったり組み合ったりして、所謂じゃれるように遊び疲れ果てた後でアイスクリームを御馳走になりました。やはりアメリカのアイスは美味い!しかし食べている間もToddとDavidは悪戯しまくりで、本当に悪友!という感じでした。その後小屋の中に積まれた干し草の山に登って遊び、解散。一旦戻ると今度はReeb氏の長男Carlと合流し、Maxも加わってSand Creekで遊ぶことに。Sand Creekでは二手に分かれてドロ爆弾の投げ合い。もう既にこういった遊びから卒業していたつもりでしたが、久し振りに楽しめました。

Beach
午後はCity Beachで遊ぶことに。Maria, Kelly, そしてMaxとともにビーチへ行きます。二度目のビーチは盛夏ということもあり相変わらずの混雑ぶりでした。街を歩く若者たちはビキニや男性は上半身は裸という、当時の日本ではちょっと考えられない開放的な姿です。湖の水は相変わらず冷たいのですが、考えてみればここは亜寒帯。緯度的にもカナダ国境に近い地域ですしペンドオレイルは水深の深い湖ですからその冷たさも無理もないところでしょうか。それにしてもプールのような飛び込みが楽しめるダイビングボードにしろ、公園内の設備にせよとてもよく整っていたと思います。ビーチから上がって足を洗う洗い場が芝生との際にあり、足が汚れずに済む工夫であったり。アメリカ人たちの水泳フォームはけして上手といえるものではなく、輩出されるオリンピックのメダリストたちはよほど特別な指導を受けているんだろうな?なんて当時感じたのも覚えています。この日はビーチからの美しい光景を楽しみながら泳ぎ、そして日光浴を存分に楽しみました。

8月2日
Fort Steeleへの小旅行

In the vehicle to Chehalis
この朝はDonnaに起こされ早々にMaria, Kellyとともにクルマで空港に比較的近い空き地に連れて行かれました。今日は4Hのメンバーとともに旅行とのこと。前日遊びまくっていたせいもあって疲れ気味で寝ぼけていてどこに行くのかもよくわからず着いて行きました。そんな訳で不覚にもパスポートを持たずに出掛けました。今までは何をするにもホストと一緒ですからパスポートを持って出たりしていませんでしたが、通常はパスポートを持たないとなりません。特にこの日は国境を超えてカナダに行くので必須だったわけです。前日に聞かされていたような気もしますがうっかり忘れDonnaに取りに戻って貰う羽目になりました。ともあれ、約40人の4HのメンバーとともにカナダのFort Steeleというところへ出発です。スクールバス、有名な黄色いあのバスに乗り込み95号線を北に向かいます。4Hクラブのリーダーの女性が引率します。日本人は私、そして石井氏と同じくサンドポイントにステイしている秋山さんという一歳年上の女性の三名でした。私は石井氏と同じ列に腰掛けてあれやこれや下らない話をしながら小旅行を楽しみました。バスは約1時間半程度でボナーズフェリーに到着。ここはKootenai川の谷にある、サンドポイントと同規模の街です。バーリントンノーザン鉄道はここから東へ向きを変えてモンタナに向かいます。ユニオンパシフィック鉄道の方はこの先国境のEast Portでカナディアンパシフィック鉄道に接続するのです。

さて、バスはやがて国境のKingsgateに到着。ここで私たち3人だけが簡単な入国審査を受けます。当時のパスポートにはその際の刻印が残っていました。もちろんアメリカ国籍があればそのまま入国できます。国境付近の山が国境に沿って刈り込まれているのがなかなか不思議というか面白かったようです。国境を超えたバスは更に北上し、凡そ数十マイル走った後目的地であるフォートスティールにようやく到着しました。途中前に座った女の子をからかって逆襲されたり、少しづつ4Hのメンバーたちにも慣れてきました。

Fort Steele


Fort Steele
フォートスティールは、いわゆる19世紀のゴールドラッシュ後に鉄道会社がこの地を通さないという判断をくだして以降、ゴールドラッシュまでの繁栄が嘘のように一気にゴーストタウンと化してしまった街です。しかしそのことが幸いして昔の町並みがそっくり現代まで残ったことで歴史を保存する街として公園化されたのです。一行を乗せたバスが駐車場に着くと、まずは汽車に乗せられました。この汽車はフォートスティールを起点として一周約20分程度で一周できるような観光鉄道です。蒸気機関車がその当時、そして恐らく現在も使用されていて20世紀中盤頃の豪華列車を思わせるような客車を2、3両連結してのんびり走ります。駅は起点のこの駅と周回コースの反対側のたったの二ケ所。運賃は当時の値段で子供料金で1ドルでした。その後、まるで要塞のような門を超えて中へ入ります。公園内は古い、当時の町並みがそっくり保存されていて、パン屋だったり学校だったり教会だったり。そして劇場では実際に演劇も上演していました。もちろん芝居の内容はよくわかりませんでしたが、それでも臨場感があってけして眠くはならなかったと記憶しています。MariaとKellyが持参したランチをとって今度は土産ものを買います。きっと今ならもっといいものを買ったのでしょうが、規定による持参金の少なさからか、カナダの小さな国旗やら、バッジやら。それでもメイプルを象ったこのバッジは中々良いもので今でも残っています。結局カメラがダメだったので、今となってはここで買ったフォトブックが貴重な写真となりました。

Cynthia
フォートスティールを出発した4Hクラブの一行は帰りに、場所は覚えていないのですが、どこかの公園に立ち寄りました。この頃にはもう他の4Hメンバーとも仲良くなっていて、帰りがけに秋山さんを介して彼女のホストのLizという子が何かと私に喋りかけてきます。Lizが言うには彼女の友だちでLizの一つ前の席に座っていたCynthiaという子が私を気に入ってくれたとのこと。今だったら積極的に席を移ってお話ししたかもしれませんが(笑)、ホストのマリアたちへの手前もあり妙にすかした態度を取ってしまったかもしれません。Cynthiaはとても可愛い子で綺麗なブロンドだったことを覚えていますが、Lizや秋山さん、そして石井氏たちもいたので、Cynthiaとはなかなか思うようにお話しできなかったのが今となっっては残念です。思えばこれを気に暫くの間Cynthiaのことが気になってしかたない時期が続きました。(笑)公園を出た後は真直ぐサンドポイントに戻ります。14, 15歳の頃といえば、こういう誰が誰を気に入ってるといった話題が大好きな時期ですから、そういう話でみんなで盛り上がるのが楽しい、そんな感じだったのでしょうね。いずれにしてもこんな経験まですることができて、カナダへ行けたこともありとても充実感を感じる一日になりました。

8月3日
Camera, Birthday Card
ここまでの間私は多くの写真を撮ってきました。帰国後アルバムを飾る筈なのです。しかし、それまでカメラを扱う経験がなかったこと、ヤシカ製のとても古い型のカメラだったこともあって、結局多くの写真は全く写っていなかったという失態を演じたのでしたが、この日の朝もフィルムの巻き上げがおかしいため、broken, broken ! と一人で慌ててしまったのです。そこでDaleが私を街のカメラ屋さんに連れて行ってくれ壊れているわけではないというオチになったわけです。さて、せっかく街に出たついでにCynthiaにバースデイカードを買おうと思いDaleにそういった店に行きたいと告げました。前日のバスの中でCynthiaから誕生日は8月4日と聞いていたからです。そしてカードショップでバラの花を使った可愛らしいカードを買うと家に戻ってさっそくカードにメッセージを書くのです。しかし問題はどうやって渡すか、です。マリアたちに素直にそう言えばいいのですけど、ホストのマリアでなく別の子に興味があるということに気がひけてしまって、上手く聞きだせません。そこで4Hの名簿みたいのはない?とか聞いて彼女の名前を探したりしたのです。しかし「シンシア」という発音からスペルを連想できずに名簿をみてもどうしても「S」を探してしまいます。これかな?と思った子の名前を聞いたりしました。「スネディーン」とか。今思えばあまり意識せずにさらりとカードをあげたい、せっかく知り合えたんだし、くらいに頼めばよかったなって思います。(笑)

Hope
さて、マリアたち、Williamsを名乗る子供達とは別にベバリーという異母兄弟が8月1日から遊びに来ていました。そういう意味でもFields家は子だくさんです。結局1回しか会えない子供もいましたが、そういう意味でもビックリです。さて、この日はDaleとベバリーとともにHopeへ出掛けました。ダットサンに乗ってID200をペンドオレイル湖沿いに東へ進みます。道が広く空いていることもあって60〜70マイルで飛ばします。Daleの手にはオリンピアビール、いいんかい?と言いたくなりますが、勿論現在では禁止行為です。滅多に交通事故など起きないというのんびりとした町ゆえのことでしょうね。

Hope
この途上で、このサイトにもコーナーを設けたPack Riverの河口の景色を始めて目にしました。真夏で色々な植物が河口の湿地帯に鮮やかな緑色を描いているとても不思議で素敵な光景でした。Hopeに到着すると一件の家を訪ねます。このお宅にも以前大阪からの交換留学生が来ていたとのこと。その後ベバリをここに残して、Hope近くの半島部分にあるキャンプ地へDaleと出掛けます。バーリントンノーザン鉄道のモンタナリンク線の踏切を超えキャンプ地に入ると多くのテントが並んでいます。森のような一帯を歩いて通り抜けるとペンドオレイルが一望できる場所に出ます。サンドポイントからの眺めとはまた違った絶景です。湖岸のキャビンでコーラを飲み、Daleはビール。しばらくこのキャビンで湖面の景色を楽しんだ後引き返しましたが、途中もの凄い夕立ちと落雷にびっくりした一日になりました。

8月4日
食事
これは私にとっては素直に嬉しかったことだったのですが、滞在期間中食事の準備の当番が割り当てられていました。冷蔵庫に当番表が貼ってあったのです。といってもすることは単純、お皿とナイフとフォークを並べ、レモネードを作ります。そして時々ソーセージを炒めたりパンを焼いたり。それから食事後の片付けが主な仕事です。そして余った野菜は刻んでニワトリに。そして肉類は飼い犬のスモーキンジョーに与えるのも当番の仕事です。電気式のレンジとかパーコレータで煎れるコーヒーとか、私にはもの珍しく毎回当番は楽しみでした。

楽器 この家にはいくつかの楽器がありました。ピアノ、ギターそしてエレクトーンです。ギターはネックが反ってしまっていていい音が出なかったのでもっぱら私はピアノとエレクトーンで遊びました。小学生の頃ピアノを4年、エレクトーンを2年習っていた関係でその頃はとにかく楽器で遊ぶのが大好きでした。自分の日本の自宅にはギターとエレクトーンしかありませんでしたが、それでも毎日のように弾いていたので楽器のない生活が不安だったのでしたが、幸いでした。こっちへ来てDonnaからThe Entertainerなどの曲を習ったりしましたが、おかげで楽しく過ごすことができました。

レコードプレーヤー
当時はまだCDプレーヤがない時代です。CDの登場まではあと数年というところだったでしょうか。ですから音楽を楽しむのはもっぱらレコード、そして何とToddは8トラックのデッキを持っていて、エリック・クラプトンなんかが好きだったようです。私の中学の同級生からはロックのレコードを土産に欲しい!とか贅沢なおねだりをされていたので、当時人気絶頂だったKISSやら、他にQueenとかKC Sunshine Bandや、リンゴスターのソロ、無名のロックシンガーやら多くのレコードを買いました。この時買ったシングルがその後80年代後半にデビューしたティファニーのデビュー曲だったのがやはり驚き。ティファニーがカバーしたんですね。ところで、日本と違いこっちではレコードの扱いがひどくぞんざいで、Toddが私の買ったレコードを聞きたがった時は内心ヒヤヒヤしました。そういう意味で言えばリーフもなく、ジャケットも粗末。日本版と比較すると随分と安っぽいなと実感しましたが、値段的にも日本の6割程度でしたので少ない小遣いでも何枚か購入することが出来た次第です。

コーダレーン

Coeur d' Alene
さて、一旦大学の関係で帰宅していたベバリーですが、コーダレーンの自宅へ戻るとのこと。そこでDonnaがクルマで送り、Toddと私が同行しました。到着して荷物を運び込むと何と手ハンドル式のレコードプレーヤー、いや蓄音機と言った方がいいでしょう、それが部屋に置いてあって驚きました。Toddと二人でコーダレーンの町を散策します。サンドポイントよりずっと洗練された感じで町自体も大きいという印象でした。その後大学を訪ねToddの姉のバレリーを訪ねます。彼女とはこの一度きりしか会うことがなくあまり印象がないのですが、かなり大学で優秀な成績だったと聞いています。バレリーを含め4人でマクドナルドでランチを食べ、コーダレーンを後にしました。思えばこれが初めてのマクドナルドだったような気がします。

8月5日
Mr. Anson
マリアに呼ばれました。この日は別の4Hメンバーの家に行くとのこと。とりあえず自転車に乗って出掛けます。この家はサンドクリークの東側に位置しています。目的地は丁度反対の西側にあたり、なおかつSchweitzer Creekの谷のところだったので、急な坂を何度も通らなければなりません。貸してもらっていた自転車はけして楽ではなく、結構息を切らせながら必死にマリアに着いていったような覚えがあります。さて、ようやく辿り着いた家は、Mr. Ansonという方の家。今では珍しくもないですが、スキンヘッドが威圧感のある感じの40代後半といった感じのオジサンでした。彼に家に石井氏、そしてLizなんかがやって来ました。

Schweitzer Creek
内心Cynthiaに会えるかな?なんて期待していましたが、残念ながら夢に終りました。Ansonさんのお宅で初めて自動演奏ピアノを見てビックリしました。そしてバンジョーがあったのでバンジョーのコードを教えて貰い、Lizのピアノで何曲か演奏を楽しみました。その後Ansonさんがチキンカツのカツ丼やラーメンなどの日本食を御馳走してくれました。その後皆でSchweitzer Creekでダムを作ったり塞き止めたダムを利用して魚を取ったりしながら遊びました。Lizともすっかり仲良くなりましたが残念ながらCynthiaのことは聞けませんでした。

シティ・ビーチとパーティ
午後は再びペンドオレイルのシティ・ビーチへMaria, KellyそしてMaxと出掛けました。その当時は結構日焼けにこだわっ手いたので、Kellyが色々ちょっかいをかけてくるのを無私して悠然と甲羅干しを楽しむことに決め込みました。いつもであれば2、3時間で引き上げるのですが、この日は一向に帰る気配がありません。どうしたことか?と思っていたらそのうちDaleとDonnaもやってきました。やがて他の4Hの家族も集まってきました。どうやらこの日はパーティのようです。持ち寄った御馳走、サラダ、フライドチキン、などを公園の東屋に並べ皆でつつきあいます。石井氏と彼のホストのベイリーもやって来ました。みんなで盛大なパーティです。もう日が暮れ始める頃でしたが石井氏を誘いビーチで泳ぎます。夕焼けのビーチがあまりにも綺麗だったので、泳ぎたくなったのかもしれません。しつこいのですが、この時もCynthiaに会えるかな?って期待を持ち石井氏にもCynthiaを一緒に探そう!と持ちかけたのですがにべもなく断られました。それは当然ですね。今思えば。(笑)湖からあがると、KellyがRunning Race ! と挑発してきたので、I can outrun you ! と一蹴したのですが彼女は引き下がりません。仕方ないなぁと思いつつ内心負けないか不安を感じつつおよそ80メートルでしょうか公園内の芝生でレースをしました。結果は、そうですね書くのはやめておきましょう。パーティ自身はとても楽しかったのでしたが、反面Cynthiaに会うことができずガッカリという複雑な思いですっかり日が暮れたビーチを引き上げたのでした。結局Cynthiaとはこの後も会う機会がありませんでした。

8月6日
Schweitzer Creek
この日も昨日と同じSchweitzer Creekで遊びました。Maxと二人で出掛けていくと先客がいて、下流に作ったダムで魚を取っていました。Maxと示しあわせて「もっと上流にダムを作り魚を横取りしよう!」ということになりました。さっそく道路下の窪のあたりのすぐ下にダムを作ります。しかし、こういうヨコシマな考えはけして報われないもの。結局私たちが作ったダムに魚はまったくかかってくれません。ふて腐れてMaxと二人で意味もなくゴミを流したりして、結局イヤガラせをするような悪戯をした挙げ句釣果ゼロで引き上げたのでした。


シティ・ビーチとパーティ
昨日同様、この日も午後はシティ・ビーチで遊びました。毎日のように来ても全く飽きることはありません。それほどこの町に馴染んできていたのかもしれません。最初は信じられないと感じられた上半身裸でんビーチどころか市街地を歩くことや歩きながら食べる(今の日本では普通ですけど・・・)ことなども平気でできるようになっていました。そういう意味でも最初の一週間くらいまでは所謂Visitorだったのかもしれませんがここへきてなにか、この町で暮らしている、そんな感覚になっていたのかもしれません。夕方は教会でバフェスタイルのディナーです。子供にはバフェは最高です。好きなものを好きなだけ取ることができるからです。案の定Maxと私はハムやら何やら食べたいものをひたすら食べまくりすぐに大きなお皿を空にしてしまっていました。やはりバフェは大人の食事であるべきなんでしょうかね。

8月7日
教会
この日は日曜だったので午前中は教会の日です。が、どうしても行きたくなかった私は、Donnaに、"Must I go to Church ?" と聞いたのです。そんな英語表現は普通しないのですが、中学生らしい英語です。それが可笑しかったのかDonnaが随分と笑っていたのが記憶に残っています。子供達も含めてみんな教会へ行ったので一人留守番です。私はその機会にOZARKというお気に入りになったレコードをカセットにダビングすることにしました。が、接続ケーブルがあるわけでもなく、仕方なくマイク録音です。今でもテープは残っていますが当然音質はよくありません。しかし私にとっても大事な貴重なお土産となりました。


サニーサイド

Sunnyside
午後はデビッド(親戚系)たちとサニーサイドに出掛けました。Donna, ToddそしてMaxも一緒です。サニーサイドのビーチは砂浜ではありません。というよりLake Pend Oreilleで砂場があるのはCity Beach周辺だけなのです。とても歩きにくい岩だらけの岸辺でしたがダイビングボードがあり、そこから飛び込んで水泳を楽しみました。タイヤのチューブのようなものを持って行ったのでそれを浮き輪にして遊びます。しかし大人しくしているわけもなく、Todd, Maxの3人にDavidも巻き込んでチューブで殴り合いです。時々モーターボートが近くを通り波立ててくれたので、またそれが楽しい。サニーサイドは景色も良く、ビーチよりも水の透明感もあってとても楽しい水泳となりました。

8月8日
手紙 何しろ大勢に手紙を書かなければならなかったので、この日の午前中はひたすら手紙を書くことにしました。クラスの友だち、ラボの友だち、先生、親戚、そして両親です。書きながらふと感じたのですが、あともう2週間しか残っていないんだなぁと寂しく思いました。帰る日のことを意識したのはこの日が初めてでした。よくこの国際交流ではホームシックの話しを聞きますが、よほどホストファミリーと相性がよく、彼等がいい人たちだったからか、そしてこのサンドポイントという町を気に入ったからなのか、私はとうとう一度も早く帰りたいなどと思ったことはありませんでした。



サニーサイド
午後は再びサニーサイドです。この日はトッド、彼の友だちとその彼女と行くことになりました。高校生らしいのですが、可愛い女の子でした。やはり同年代でビーチで遊ぶのは楽しいって正直に思いました。何か今思えばアメリカの青春映画とかのシーンに重なる部分もあったかな?と思うような典型的な夏休みの高校生!っていう印象です。トッドがうっかり財布をポケットに入れたまま泳いでしまって、あとで半べそかきながら大事な100ドル紙幣を必死で乾かしていました。悪ガキだった私は同情するどころか濡れて千切れそうな紙幣を横から破こうとしたりして、トッドと半分喧嘩みたいに毎日やりあっていたななどと思い出します。今思えばあの年代にとって100ドル紙幣がなくなるのは大変なことです。千切ったりは結局しなかったのですが、今思えばあの必死ぶりは当然ですね。


デイリー・ビー
夜気持ちよくレコードを聞いていたらマリアがやってきました。手に新聞を持ってます。何だ?と思ったら地元紙のデイリー・ビーに「Sachiko likes Tacos」という見出しが載っていました。Sachikoさんは、一緒にFort Steeleに行った時しか会っていないのですが、同じサンドポイントに来ている3人のうちの1人です。彼女がビー紙の取材を受けて記事が載っていたというわけです。うーん、当時の負けず嫌いの私としてはその記事を見ていつか、この地にいる限り絶対に自分も新聞に載ってやる!とわけのわからない誓いをたてていたのを思い出します。田舎も田舎ですから、こうした交換学生が日本から来るというだけで記事になるんだなぁと今から考えれば思います。しかしこうして新聞に載るのはいい記念になりますね。

8月9日
ショッピング
手紙を書くのと同様に大変だったのがお土産です。大量のお土産を買って帰らなければなりません。1ドル100円強の現在とは違い360円前後の時代ですから、10ドルといえば3000円を超える大金になります。少しでも節約!とこの日Daleにお願いしてダウンタウンに連れてきてもらい、お気に入りの1st Avenueを中心に1件1件吟味しながらお土産を探しました。スポーツ品を売っている店では安い絵葉書やスキーのストックにつける類いのペナントを大量に買いました。絵葉書はなんと45枚です。1枚7セントだったのでお得です。今思えば自分が行ったことの無い町の絵葉書貰っても嬉しくもないよな〜なんて思いますが、センスもお金もないので、これはラッキー!とばかりに大量買いしたわけです。次に一番お気に入りだったRexallという、多分もともとはDrug Storeなのですが、その店でさらに民芸品チックなものを買い、最後にレコード店で当時人気絶頂だったKISSのアルバムを買いました。なんだかんだとシングルとLP合わせて10枚以上のレコードを買ってきたのですが、アメリカではレコードは粗雑に扱うからかジャケットもチープですしリーフレットも無いです。その代わり値段はいくら円安とはいえ、安かったです。日本では当時2500円くらいがLPの相場だったと思いますが、およそ日本円で1500円以下でLPを買えることにはとても得した気分になっていました。この日でおよそ必要なお土産の半分を済ませることができました。


8月10日
ハックルベリー・ピッキング

Huckleberry
ハックルベリーはアイダホ州の「州のフルーツ」です。よく摘みに行ってはホットケーキなどに挿んで食べるようです。この日はサンドポイント西方の山にハックルベリー・ピッキングをしに行きました。Dale運転のダットサンの荷台に乗り込んでKelly, Maxとともに山へ入ります。バケツを持ってどれだけ摘めるか競争です。ところがKellyにバケツをひっくり返されてしまい私はビリで私の分をぶん取ったKellyがDaleに次いで2位でした。山の上でランチを食べたのですがソーセージの油が冷えて凝固していたせいか、帰りに荷台で揺られていたらすっかり気持ちが悪くなってしまい、この日の午後はベッドで休む羽目になってしまいました。油のせいなのか、荷台の乗り心地のせいだったのか。残り日数が気になり始めたところだっただけにとても悔しかったのを覚えています。

8月11日
ダウンタウン
明けた翌日、大分気分は良くなってきましたが、依然完全ではなかったので午前中は外出できませんでした。仕方なく日記と手紙書きに没頭していました。午後になるともう外出しても平気かな?という程度に回復してきたのでみんなと一緒にシティ・ビーチへ行きました。さすがに泳ぐのは避けてダウンタウンを徘徊することに。シーダーストリートにあるDonkey Jawというレストランに行くとDaleがビールを飲んでいました。平日の昼からビールとは・・・いささか驚きです。私は一人でお土産の買い物を済ませました。

ボート・フィッシング
ディナーを済ませてから、隣人のMike Reeb氏が私たち(Dale, Max)を連れてボートフィッシングに連れていってくれました。マリーナまでクルマで行き、そこからいよいよモーターボートで出発です。モーターボート自体乗ったことがなかったので、とても興奮しました。かなりのスピードでペンドオレイル湖を滑走していき夕方の風がとても心地良かったと思います。現在でもこの湖はボートフィッシュングのメッカです。湖の中心付近で一旦止まって釣りの準備です。といっても餌をつけるわけでもなく、そのまま針がついた糸を垂らすだけ。ボートを今度はゆっくりと走らせると自然と食い付くというわけです。間もなく私の釣り竿にも手応えがあり大きなニジマスを釣ることができました。都合4匹中、結局偶然にも私がヒットさせたものが一番大きくて、ちょっと自慢げな気持ちになりました。始めてのボートフィッシングをとても楽しむことができ、すっかり具合が悪かったことなど忘れることができました。

8月12日
クラーク・フォーク

Clark Fork
この日は再びDaleのダットサンでKelly, Maria, Toddとともに、そうそう犬のSmoking Joeも一緒にモンタナ州堺に近いクラーク・フォークの奥の方まで出掛けました。200号州道を2時間あまり走ってから山間部に入ります。無舗装でガードレールすらないギリギリクルマが通れるかどうかという悪路を30分あまり走るとクリークがありそこにかかる小さな橋のところでランチを食べました。それにしてもわずか2時間強しか離れていないのに随分と奥まった場所だと感じました。ランチの後クリーク沿いに山奥に入って行きました。ゴツゴツで歩きにくい岩がちのクリークはなかなかの難所。私は途中で足を滑らせ水に落ちてしまいやむを得ずジーンズを脱いで短パンで歩いたのですが、ところどころにあるブッシュのせいですっかり足が傷だらけです。いい加減歩いた頃トッドの顔を見ると、彼も疲れた!と言う顔をしていたので、Daleにそろそろ帰ろう!と告げました。かなりタフでしたが、クリークの綺麗な水の流れを堪能することはできました。帰りにクラーク・フォークでは現在でも行われいる、ニジマスの養殖場を見学して帰りました。

8月13日
水上スキー

Boart Dock
私はこの日の午後を楽しみにしていました。というのも隣人のMr. Reeb氏が水上スキーに連れて行ってくれることになっていたからです。彼と彼の息子、そしてToddと私で早速マリーナまで出掛けます。何日か前のボートフィッシングと同様にマリーナからモーターボートに乗りサンドポイントとは対岸にあたるあたりまで行きます。そこにはモーターボートの船着き場のような簡単な設備があります。一人がそこに残り救命胴衣を引っ張って沈まないようにしておき、スキーヤーは水中で待ちます。ボートが動くと一瞬にして加速しスキーヤーは強く引っ張られ水中から浮き上がって湖面を滑るのです。彼の息子からスタートしましたが何十秒かで転倒、Toddも似たりよったりです。そして私の番。しかし最初のトライはたった3秒間で水没でした。Mr. Reebが膝や腕を曲げないようにとアドバイスしてくれます。二度目は約300メートル滑ることができ、そしてとうとう最後のトライアルです。やりました!今度は無事カーブも乗り越えて約1キロ以上にわたってこの美しいペンドオレイルの湖面を滑ることができました。初めて挑戦するスポーツでしたがとてもエキサイティングな経験でした。そうした初めて経験することの一つ一つが私にとっていい経験、そしていい想い出です。やったことのないことは不安ですし時として怖さを感じます。しかし経験してみれば想像以上の何かをきっと得ることができる、そういうことを知ることができたと思います。

8月14日
今日は色々
この日は二度目の水上スキーの予定でしたが、天気が悪くて残念ながら中止となってしまいました。この日は日曜だったのですが、「当然」私は教会行きをキャンセルし一人でToddの自転車を借りて再びダウンタウンに出掛けた。母からの手紙でさらに土産を買う必要があることがわかったからである。この日も色々買い物をしたのですが、店の店員が計算を間違えていることに気付いて、それを店員に伝えることができました。そういう意味で既に臆せず怖がらずに英語を話すことができるようになっていたのかもしれません。買い物で困ることといえば、Made in Japan製品、特に民芸品の類いではこのMade in Japanがとても多いことです。こうした類いのモノは地元生産されていると疑わなかった当時は、たまたま気に入ったものが大体日本製だったのには正直驚きました。現代ではMade in JapanではなくMade in Chinaに席巻されているのですが、こうした土産モノの多くは一括で大量生産されているのが普通と知っている今ではそうした土産モノには手を出しませんが、当時は随分とガッカリさせられたものです。帰宅後は何ということもなく、外へ出てチキン、牛と戯れたりクリークの方まで出掛けて遊んだりして過ごしました。

8月15日
Daily Bee紙

Recent Daily Bee
ドナが私たちをビーチへ連れて行ってくれました。従兄弟のティナも一緒で、彼女が持って来たゴムボートが大活躍しました。ビーチで散々遊んだ後でDonnaが私をDaily Bee紙のオフィスへ連れて行きました。そう、待ちに待った?新聞取材の日なのです。Bee紙のJim Waggoner氏がインタビュアーでDonnaが最初に色々と私を受け入れてからのことを話し私が少し口を挿みました。次第に色々と話したくなってついつい、私がどれだけこの町やこの町の人たち、そしてペンドオレイル湖が大好きかを色々なエピソードを交えながら自然に話していたようで後半はほとんど私が喋っていました。取材が終って写真を1枚取って貰った後、Donnaの兄弟の家に行きました。この家ではたくさんの金魚を飼っていました。面白かったのはこちらでも「Golden Fish」、「金魚」と呼ばれていたことです。家に戻ると、みんながSmokin' Joeを探していました。昨日から行方不明ということ。どうも鳴き声がしないなぁとおもったらそういうこと。後で聞いたところ発情期でどうやら恋人を求めてうろうろしていたらしいです。日本と違って首輪はしているものの、鎖で繋いでいないのでこういったことはよくあるらしく、そのうち戻ってくるとのこと。それでもあちらこちらヘトヘトになりながら捜しまわり、おかげでグッスリ眠ることができました。

8月16日
Daily Bee紙の記事
さすがにこの日は新聞を随分と待ちました。ところがのんびりしたもので昼過ぎまで届きません。待ちくたびれた私は日課のバイク・ライドをしたりクリークへ遊びに行って時間を潰しました。ようやく届いた新聞。私の記事は3面に紙面の1/3を使って掲載されていました!さすがローカル紙とでもいうべきか、驚くような紙面の使い方です。記事には昨日話したことがあれやこれや書かれていました。新聞を読みこなせるほどの英語力は勿論ありませんでしたから何が書かれていたかは当時はあまり理解できていませんでしたけど、最後の方で私が一生懸命話したことがきちんと伝わっていたようで、後から読み返してみれば、やっぱり伝えようとして話せば伝わるものなんだな、あらためてそう思いました。偶然なのですが、エルビス・プレスリーが亡くなったのが丁度滞在時だったので、エルビスの記事が反対側に載っていました。今思えば新聞をそのまま貰ってくれば良かったのにと少し後悔。夜になると長男のミッキーとそのフィアンセのコリーン、そしてクリスとダイアンが家に来ていてあれやこれや、お喋りを楽しみました。英語にも慣れてきてすんなりと言葉が出るようになっていた時期でもあり、こうした人たちとの会話はとても楽しかったと記憶しています。

8月17日
コーダレーン
この日は全員6時前に起きた。全員でグランパーの誕生日旅行に出掛けるのだ。グランパーの家でグランマー、ティナたちと合流して2台のクルマでコーダレーンに向かいます。この日はグランパーの77回目の誕生日ということで丸一日がかりの家族旅行なのです。コーダレーンには9:30に着きました。そこからコーダレーン湖の遊覧船に乗るのですが出航が10:00だったので少し間があったのでコーダレーン・パークをDaleと散歩しました。途中すれ違った女の子がニッコリした時にDaleが、アメリカではあれは気に入ったっていうことだよ!と教えてくれちょっとだけいい気になって出航を迎えました。全体としてコーダレーンは雰囲気が洗練されている印象がありました。

ボートは2つを繋ぎあわせたようなヘンな様態でした。片方のボートにだけエンジンが付いていたようです。コーダレーン湖も大きな湖です。端から端までの航行は時間がかかります。ゆっくり進むボートを派手にモーターボートがすり抜けていきます。当時の私にはモーターボートの方に乗りたい気持ちが大きくこの長時間の船旅には少し飽きました。きっと今ならその素晴らしい景色にずっとビデオを回しっぱなしでけして飽きることなどないとは思いますが、まだまだそうした部分だけで落ち着いて席に座っていられる年頃ではなかったのかもしれません。


St. Joe River
やがて、ボートはユニオン・パシフィック鉄道が横切る橋の近くを通ります。するとどうでしょう、橋がゆっくり回転を始めるではないですか。この橋は背の高いボートを通すために回転する橋なのです。日本にも「はね橋」というのはあって、映像でも見たことがありましたがこの光景はとてももの珍しく印象的でした。次第に両岸が狭く迫ってきます。いよいよ湖の末端からSt. Joe Riverへかかるのです。このサイトのコーダレーン・コーナーでも紹介している写真のようなとても珍しい光景が目の前に現れたのです。ボートはこの間を縫うようにくねくねと進み、約1時間経過したところで引き返しました。

帰りは、Daleに促され船上に設置していたピアノの演奏をしたり、あれやこれやここまでのホームステイの想い出を話したりして盛り上がりながら多いに笑い楽しい時間を過ごしました。コーダレーンに到着後、パークでバースデイ・パーティ。手作りケーキに77と象ったロウソクをさしてグランパーが一生懸命火を消していたのが印象的でした。

みんな一同に疲れてきてサンドポイントに帰ることになりました。そして私はグランパーの自宅に着いてから、そこで「ハッピー・バースデイ」をピアノで演奏してあげました。(実はこれはそうしたというメモしか残っていなくて、どういうシチュエーションか覚えていないのですが、メモにはグランパーが喜んでくれたとありました。きっと疲れてたんでしょうね。)その夜はさすがにあまり考えずにすっと眠れたようでした。

8月18日
学校見学
昨夜は小旅行の疲れからか寝つきはよかったのでしたが、帰る日の夢を見てしまいました。そのせいで何とも寝覚めが悪いことになってとても寂しい思いにかられてしまいました。もうあと何日もここにいることができないのです。午前中はDaleがサンドポイントの学校を案内してくれました。もちろん夏休み中ではあるのですが、体育館でバスケットボールの練習をやっていました。恐らく高校だったかと思うのですが、やけに設備が立派で自分の中学とは随分違うなという印象が残っています。スコアボードとかも電光掲示板で当時の自分のイメージとしては凄いな!という感じだったのでしょうね。

サニーサイド
なぜだったかはっきりしませんが、どうしてもまたサニーサイドに行きたくてToddにせがみました。そしてクリスに電話してもらい、彼のクルマで4人でサニーサイドへ行ったのです。結局これが最後のサニーサイドだったのですが、この日はたまたま丸太を見つけたので、これをイカダに見立てて4人で漕ぎ始め対岸に渡ろうとしたのです。何とも無謀で日本では遊泳禁止!とかで叱られてしまいそうですが、何度もモーターボートの起こす波でひっくり返りながらも四苦八苦しつつなんとか辿り着くことができました。こんな経験も日本にいてはなかなかできるものではありませんね。この日の夜はDaleとDonnaは二人でスポーケンでコンサートだそうで、子供達だけでワイワイ過ごしました。

8月19日
感傷気分
もう本当に残り何日もありません。この日は一段と帰りたくない、寂しいという気持ちが強くなって家族とも話す気分になりません。できることなら7月の24日に戻って一からこの生活をくり返したい、そんな思いに支配されていたのです。そこで気分を変えるために自転車に乗って出掛けることにしました。今では朝食後の自転車は日課です。それでも気分が重めのせいか、タイヤがパンクしそうになり途中で引き返す羽目に。その後ブラック・ベリー摘みにみんなで出ました。たくさん取れたのは良いのですが上半身裸でやったのであっちこっち擦り傷だらけになってしまいました。

ダウンタウンへ
その後一人で自転車でダウンタウンへ出掛けました。最後の買い物をするためです。そこで父親むけの万年筆や母親へネックレスなどを買った関係でもうあと3ドル少ししか手元にありません。それでも当時としてはわずか1ヶ月に140ドル(当時としては4万円以上になります。)も使うというのはとても考えられないような贅沢な時間帯だったと言えます。帰りには前から気になっていた2つの鉄道線の交差の状況を知りたくて途中で自転車を止め土手にあがって確認しました。保線員がいて慌てて逃げて帰りましたが、スポーケン・インターナショナル鉄道とバーリントン・ノーザン鉄道が完全な平面交差をしていて、日本には滅多にない光景でもあり珍しかった記憶が強く残っています。

クッキング
帰ってみると何とToddがクッキーを作っています。ボクシングをやっていて微塵もクッキングをする雰囲気などないToddだけに驚かされます。マックス、ケリーとマリアがつまみ食いしようと狙っていたのをToddが必死に追っ払っています。私はToddに加勢して一緒にタオルを振り回してマリアたちと戦いましたが、みんなエキサイトして楽しい一時でした。

ディナー
Donnaが戻ってきました。何と私の両親へのお土産だそうで、長期にわたって色々お世話になったばかりかお土産まで貰って感謝の気持ちで一杯でした。逆に私がステイに来たことで少しでもこのファミリーに対して何かをもたらすことができたのなら、そう思いました。この日のディナーは、アイダホ牛にアイダホポテトという象徴的なディナーで、それもまたとても良い想い出になりました。ディナーの後隣のジェフの誕生パーティに招かれプレゼントがないのですが、余っていた日本から持ってきたお土産をあげました。このパーティも何かと賑やかで楽しい一時となりました。

8月20日
マーケットでのショッピング
いよいよこの日から帰りの荷物のパッキングを始めることになりました。もちろん、私が望んでいたことではありませんでしたから、嫌々ではあります。しかしあと僅かで帰らなければならない仕方のない作業でした。午前中は慌ただしくも寂しい気持ちでこうした準備に時間を費やし、昼頃からドナ、マリアそしてケリーとデイルの従兄弟が経営しているAGIマーケットへ買い物に付き合うことにしました。そこでドナたちはトマトなど食料品を購入したのですが、私は僅か1枚39セントという安い中古レコードを見つけました。ほぼ残金ゼロだったので39セントとはいえ買うことを結局躊躇してしまいましたが、当時の日本には中古レコードの流通はなく、39セント(当時のレートでの換算でも100円程度)という値段は破格でしたので驚きでした。

水上スキー
午後は、待望の二度目の水上スキーです。マイク氏と息子、トッド、デビッドと私でこの前のようにサンドポイント・マリーナからモーターボートでサンドポイントとは対岸に位置する入り江のボートデッキへ。そしてトッドから順にトライです。みなそれぞれに前回より上達している様子で、トッドは1周5分程度をダウンすることなく終了、そして私の番です。前回でだいぶコツを掴めていたので今回は自信アリ! でした。無事立ち上がると1周をトッド同様転倒することなく終了!やりました。それにしてもモーターボートに引かれながら顔に湖面の風を受けることの気持ちよさと言ったらありません。水上スキーは1本、2本のタイプがありますが、私たちのトライしたのでは両足にそれぞれはくタイプの二本足タイプ。コツはけして肘を曲げないことです。特に水中からの立ち上がりの際に曲げてしまうと確実に転倒してしまいます。そして同時に膝も曲げないこと。柔らかく保つことは必要ですが曲げてしまうとバランスを崩します。二つ目のコツはコーナリング時です。直線上ではスクリューの起こす水流の上に乗ることになり、反発が強いのでバランスが取り易いのですが、コーナーではその水流からはずれます。当然柔らかい水面に乗ることになるので、いきおいバランスを崩し易いので、この時水に足をとられないように、スキーの先端を気持ち上向きにしてやるとうまく吸収できるのです。こうして、この後何度か交替でペンドオレイル湖面での滑走を満喫することができたのです。

8月21日
英語と言語
この日は帰国の1日前。もう気が狂うほどの寂しさです。あと24時間を切ってしまいました。ホストと別れなければならない辛さはもちろんですが、せっかく英語でのコミュニケーションに慣れてきた時だっただけにもう1週間でも2週間でも滞在したい、そんな気持ちで一杯でした。言語はお互いに色々なものを伝えるための手段に過ぎません。ですから伝えたいこと、語り合いたいことがあって、それを伝えるという機会こそが何よりの上達のポイントだと思います。中学生当時の貧しいボキャブラリーであったとしても一生懸命伝え、理解する。そうした何かを伝えたり理解するという姿勢こそが語学力を伸ばすダイナミズムだと思います。その意味でもこうした機会を得たことは本当にありがたいことだったと感じています。幸いにも現在でも英語を話す同僚たちと仕事をする機会に恵まれているので、今もそういった機会を大事にしていきたいと思います。きっとこういう機会を失すれば次第に英語でのコミュニケーション力はあっと言う間に衰退していってしまう、そんなものなのかな?と感じています。

シティ・ビーチ
この日は最後のペンドオレイルを楽しむためにシティ・ビーチへ出掛けました。偶然ですが石井氏もホストのベイリーと一緒に来ていましたが、私同様彼の顔にも寂しさは隠せませんでした。このビーチでの遊泳は一番その機会が多かったアクティビティでしたが、この日が最後とばかり湖を堪能しました。

フェアウェル・パーティ
この夜、明日帰国する私のためにお別れパーティを開いてくれました。ホストファミリー、近所の友人たち、グランパ、グランマに従兄弟たち、ミッキーやコリーンたちもわざわざ来てくれてフィールズ家では賑やかな会話に溢れました。庭でBBQをしながらの談笑を楽しみながら私は一人一人の写真を撮りました。前にも書いた通りフィルムをうまく巻き上げておらず1枚も残っていないのが残念でなりません。バーベキューの後は子供たちみんなでフィールズ家の広い庭地で鬼ごっこです。「鬼」とは何て言うのか?それを伝えるのに苦労しましたが、みんなで駆け回りはしゃぎました。私にしてみればそうすることで少しでも寂しさを紛らわせることができたのかもしれません。やがて一人、また一人とお別れを告げて帰って行きました。フィールズ家の面々と私だけになった後ダイニング・テーブルで最後の団欒を楽しみました。デイルはアルバムを取り出し昔の写真を見せながら色々な話をしてくれました。どういう経緯でトッドたちウィリアムス姓の子供達を引き取ったのかなど、複雑な事情ではありますがそうした血縁のないことを一切感じさせないデイルやドナの振る舞いには今さらですが感心させられます。特に当時の日本ではあまり多い話ではなかっただけに余計子供ながらに驚きと感心があったと記憶しています。デイルは記念にと、彼の制服に付けていた米海軍のバッジと建国200年記念のバッジを私にくれました。そのバッジは制服姿のデイルの象徴だっただけに今でも私の宝物なのです。私はマリアに日本へのホームステイの予定を聞き、彼女が2年後くらいにプランを持っていることを知りました。実際翌年は横浜在住の女性を受け入れた後、その翌年にはマリア自身がその女性宅へのステイを実現させたのです。彼女にお願いして1週間だけマリアを私の実家にステイさせ、各地へ連れ歩きました。それも含めて今では良い思い出の一つになりました。こうして最後の会話を楽しんだ後この家での最後の就寝の床につきました。頭の中に思い出の数々が蘇ってきてなかなか寝付くことができませんでした。こうして私にとって始めて海外で過ごしたホームステイ最後の夜が更けていったのでした。

8月22日
スポーケンへ出発
この朝私は朝の5時15分過ぎに起床しました。午前中の比較的早い便での出発なのです。最後の朝食はChexというメーカーのシリアルです。当時の日本ではあまり一般的ではなかったので、当分食べられないななどと思いながら最後のシリアルを楽しみました。既に荷物はパック済みでTシャツ1枚をタンスに残し、自分がここで生活した記念ですとメモを残しました。この日はデイルは出勤なのでデイル、そしてトッドともここでお別れ。涙が既に溢れそうになってしまってどうしようもありません。ハグしながら今までの感謝の気持ちをデイルに伝えました。残念ながら既にデイルは他界してしまったので、これが本当の最後となってしまいましたが、あの瞬間のデイルの優しい表情は忘れることができません。トッドともお別れを言うとドナのフォードに乗ります。マリア、ケリーとマックスは同行してくれます。1時間ほどでコーダレーンに付きフリーウェイを進むとすぐにスポーケンに到着します。フリーウェイからスポーケン市内を眺めながらとうとう空港に着いてしまいました。空港のチェックインカウンターでスーツケースを預けると集合場所で1ヶ月ぶりにメンバーたちに再会しました。一同みな一ヶ月のやりつくしたという達成感からか満足そうな表情を見せていました。そして搭乗ゲートへの移動の時が来てしまいました。ドナが泣きながら"I enjoyed you"と言ってくれました。私はハンカチを差し出しましたが彼女の表情を見るうちにそのハンカチを自分で使わなければならなくなりました。最後にドナ、そしてマリア、ケリー、マックスに別れと感謝の言葉を伝えると搭乗ゲートへ。何度も振り向き最後に彼等の姿が見えなくなると再び涙が溢れます。こうして大好きなフィールズ家の人々との生活が幕を降ろしました。私たちは国内線でサンフランシスコへ移動してからアイダホグループ全員と再会、再び日本航空の国際線で帰国の途につきました。到着は9時間後の8月23日の夕方。羽田空港には母親が迎えに来ておりこの機会を与えてくれたことへの感謝の気持ちを伝えました。東京の空と北アイダホの空を比べること自体がナンセンスですが、人の多さや空気の汚れなどにひどくガッカリさせられた記憶があります。日本に帰ってきたことで、これから何をするのか、どうしていくのか、学校は?クラブ活動は?など色々なことに思いを巡らせたように思います。多くのことを教え経験させてくれたこのホームステイ・プログラムには今でも心から感謝しています。今こうしたホームステイを検討されてる方がいたら、是非躊躇することなくトライしてみて欲しい、そう思います。特に英語に自信が持てないので躊躇することは不要です。そこで人々と出会い交流し色々なことを伝え合うことができれば十分プラスになると思うからです。こうして約1ヶ月間のホームステイが幕を閉じたのです。

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